あちこち調整中。不具合はご容赦下さい。
20 5月
※終了確認期限は、生年月日等に応じて省令に定め、平成21年3月31日までに授与された免許状を所持する全ての方に割り振る。
→http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/koushin/08041112.htm
昭和59年生まれの筆者は、平成32年3月31日までに更新講習を修了し修了確認を受けなければ、現在取得している免許状(高等学校教諭一種)を失効する。(失効した後に教員になろうとするときは、更新講習を修了し免許状の再授与を受けることが必要。)
ちなみに、免許状を失効した後に教員免許状の保有を条件にしている職に就くことを望む場合、
この場合において、その免許状は、更新講習を制度上受講できないというやむを得ない事情に基づいて失効しているものであり、30時間の免許状更新講習を受講・修了するだけで再び有効な免許状の授与を受けるため、履歴書にも免許状を授与された旨の記載を行うことができること(更新講習の受講が必要であることを併記する必要あり)とする予定です。
とのこと。
複数の免許状(小学校教諭と中学校教諭 など)を所持する者の有効期間は、最後に知識技能を得て授与された免許状を基準とし、最も遅く満了となる有効期間に統一。
詳しくは文科省サイト参照↓
教員免許更新制における更新講習について – 文部科学省
28 10月
全国学力テスト,正確には「全国学力・学習状況調査」
は,全国の全小学6年生・中学3年生を対象に今年度から始まった学力調査テストである.
しかしながら,今回の学力テストの実施に関しては,目的・実施方法・テスト内容・結果の解釈に関して疑問に感じるところが非常に多い.
何より,これは「教育効果」をはかるためのテストなのであって,テストされているのは政府(教育政策)の方であり教育委員会のほうであり教員の方である※ということを,我々は理解すべきだ.
ref. 平成19年度全国学力・学習状況調査 調査結果について – 国立教育政策研究所
ref. 平成19年度全国学力・学習状況調査の調査問題・正答例・問題趣旨について – 国立教育政策研究所
※この点,板挟みな格好になってしまう先生方には同情を禁じ得ないが.
先日公表された結果では,都道府県別,地域規模別(大都市~僻地),国公私立別に各教科の平均点・中央値・標準偏差が公開され,市町村単位での公表は各市町村教委の判断に委ねられた.
ref. 全国学力調査の都道府県別ランキングをまとめてみる – 木走日記
まず,単純なデータの提示に関しての不満.少なくとも関係者向けの報告には,ヒストグラムでなく箱ひげ図を掲載すべきだろう.都道府県別,地域規模別,国公私立別に正答数の有意な差があるのかどうか,箱ひげ図を用いればおおよそ見当をつけることはできる.むしろ,それ以外のグラフで分類間の差を見ることはできない.
(だからどうして,「質問16:第6学年の児童は、熱意をもって勉強していると思いますか」みたいな抽象的な質問の結果を箱ひげ図で比較して,一方,肝心の得点分布はただの度数分布なんだよ(爆))
ヒストグラムは,図を書く人の解釈が入る余地が多分にあって,統計データの表示方法としてはふさわしくない.(下図参照)
(ただしこの点については,一般的に解釈が容易なヒストグラムに直すことで読者の理解を助けようとしたマスメディアの姿勢を非難するつもりは無い.)
例えば,「アイスクリーム屋の交通量と,プールで溺れる子供の数の間には,強い相関性が存在することが明らかになった」と仮定して,(そしておそらく,この仮定は間違っていないだろう)
これはすなわち,アイスクリームが子供の溺死の原因となっていることを示している。
かと言うと,そんな訳はない.
これは,「アイスクリーム屋の交通量」と「プールで溺れる子供の数」の両方ともに関係を持つ「第3の変数」――例えば「日中の平均気温」など――の存在によって相関性が生じているというだけで,これらふたつの要素の間に直接の因果性が存在しているわけではない。
ref. CUM HOC ERGO PROPTER HOC – Radium Software
こんなことは統計の一番最初に習うことである.今回の調査に対しても,
・就学援助を受けている子どもの多い学校の成績が低い傾向がある。
・家で宿題をする方が点数が高い。
・朝食を毎日食べる方が点数が高い。
ref. 朝日新聞社説(2007年10月25日)(リンク先はWeb魚拓) – asahi.com
などと,単純に相関関係だけを見た解釈が述べられているが,だからどうしたと言うのが率直な感想である.
理解に苦しむのは,敢えて学力テストと“同時に”「児童・生徒の学習・生活環境の調査」も行った点.むしろ,これはミスリードを誘っているとしか思えない.
この報告だけを見て、
「朝食を食べれば成績が上がるんだ!」とか
「うちの子にも今日から持ち物の確認をさせないと!」とか思ってしまう人は
いろんな業者のカモになりやすい人かもしれない。
ref. 文部科学省の全国学力テストを検証する3 – 負けまいとする心でしょう!
学力テストと生活調査を同時に行うことで,その2つが関連しているように子どもたちに思わせてしまっては,(実際に関係していようがしていまいが)回答に影響を与える.せめて1日ずらすだけでよいのだ.
もっと言うなら,生活調査は定期的に繰り返してはじめて(生活態度の“変化”を勘案してはじめて),学力との関連が見えてくるのではないか.たった1度の関連付けでいったい何がわかると言うのだろう.
一般的に、全員が参加する、いわゆる悉皆調査のほうが、調査対象者の数が多い分だけ、正確な情報を得られると思われがちである。しかし、この検討委員会に出席した委員(発言内容から見てテスト理論の専門家と思われる)の意見は、この常識とは異なる。むしろ、悉皆調査の方が、正確で客観的なデータを取る上で、マイナス面が大きいというのである。ある委員は、こう言っている。
「客観的なデータを取ることが重要である。悉皆調査で一番懸念されることは、成績の悪い子どもを休ませたり、学力調査の結果において高いパフォーマンスを得るための特別な努力をすることで、データが変質してしまうことである。取ったデータがすでに変質してしまっていれば、それをどれだけ分析しても意味がない」(第3回議事概要)。
ref. 苅谷剛彦「この国の教育にいま、起きていること」 第5回 教育政策の路線変更と全国学力テストの意味
例えば,Xという能力を測る指標が4つ(x1,x2,x3,x4)あり,それをA,B,C,Dさんについて調査するとする.このとき「全員が全部の問題を解く」必要があるか.答えはNo.そんな無駄をなくすべく,効率のよい実験方法をデザインし結果を適切に解析することが既に学問領域として成立している.
ref. 実験計画法 – Wikipedia
そうやって適切に問題を割り振れば,調査対象もサンプリングすることが可能で,全員が同一のテストを受ける必要はない.
これは,今回の調査を個人別や学校別の順位付けに利用しないという建前を保障するためにも有意義である.全員が同じ問題を解き,同じ基準で採点されるのであれば,本当に順位付けに用いられないのかという不安は残るし,実際,可能である.だったら初めから、単純比較が無意味であることが自明な問題(受験者ごとに問題が異なる)を使えばいい.
その他,事前対策の問題とか,採点基準の混乱とか,記名式の是非とか,棚上げにされたまま実施された学力テスト.
そんなことより何より,一番の問題は学力テストを実施する意味を誰も理解しちゃいなかった点にある.
ref. 見切り発車しかしない教育改革 – 今日行く審議会@はてな
ぶっちゃけて言うと,今回の学力テストはゆとり教育に対する批判を受け,ともかく何か対応しましたよという文科省のアピールプレイでしかない.だから今回の結果は,ここ数年の教育政策を肯定するにも否定するにも都合良く解釈できる.ようになっている.
というかそもそも,明確な目的も基準も無かったのだから,「何か」を判断することなどそもそも不可能なのだ.そういう問題にはなっていない.
いわゆる知能テストだって,男女差が出ないように問題が調整されたから男女差が無いとされているわけで.
少なくとも今回の調査では,本当に問題作成時に意図した能力差が測れているのか,それとも単に問題が悪かったための誤差なのか,誰にも判断することはできない.
何より,ここでは「学力」の検証ではなく,「学力テスト」の検証こそが必要なのに,それがなされていないのはどーゆーこっちゃ。
全国学力テストは「教育政策アセスメント調査」とでも名称変更したほうが良い。
ref. 全国学力テストは名称変更したほうが誤解が減る – 今日行く審議会@はてな
全国学力テストの評価対象は教育行政であり,教育行政の評価のために収集されたデータが利用されない,または利用できないとしたら,今回実施された全国学力テストはなぜ行われたのか分からなくなる。
ref. 教育行政を評価しよう – 今日行く審議会@はてな
なお,筆者は学力テストそのものに反対しているわけではないので誤解の無いように.もっとも,
そんなにガチガチに「教育」を縛らなくたって,僕はちゃんと,いろんな人(それは必ずしも「立派な」人ばかりではない)から「生き方」を学んだよ.そしてこれからも.
こういう,社会調査方法だとか統計データの扱いだとか資料の読み方なんかを学ぶことが,教科「情報」の目的のひとつで,そうした教育は必要だし有意義だしきっと面白いと思うんだけど,ただのパソコン教室にされた挙句コンピュータが一般的になってパソコン教室としての役割が薄れ始めたとたんいらない子扱いはあまりにも酷い.
でも実際,そんな余裕がないのは重々承知している.中高一貫校や私立校,附属校ではかなり興味深い実践の報告も聞くのだけど,結局は担当教員のがんばり次第.日本の中等教育は,まだその域に達していないのか.(むしろ高等教育が中等レベルに下がってきてるような話があちこちから聞こえてくるのが笑えない.)
自分が得た知識や経験を,社会への恩返しとして遺そうとしたとき,唯一の手段となるのが教育だ.
9 2月
ごく最近まで、インターネットで何らかの情報を発信するには、ある程度の専門知識とそれなりの環境が必要だった。そのため「読み手(閲覧者)」と「書き手(発信者)」は区別することが可能であり※1、「書き手」である人々は自分が情報を発信する立場にいることを否応なく自覚させられた。
そうした状況において、友人・知人の間だけでのやりとりを楽しみたい人たちが見ず知らずの人に対して「リンク禁止」を主張することもあったし、自分が発信する情報へのアクセスを管理したい人たちが「無断リンク禁止」を主張することもあった。当然、アドレスさえ打ち込めば(サーバの設定やプログラムによって認証する場合を除き)誰もが自由にアクセスできるインターネットの世界において、これらの主張はナンセンスだ。しかし、彼らは少なくとも、自分の書いたものが誰からも見られ得るという事実は知っていた。
だが、その世界も変わりつつある。
もはやインターネットは何事かを主張するための特別な場ではなく、「手軽に使える便利なツール」でしかない。それは、インフラの普及によってインターネット自体が一般的なものになったためでもあるし、SNSをはじめとしたWebサービスの進展によって専門的な知識や特別な環境が無くても「書き手」となることが可能になったためでもある。「読み手」と「書き手」の境界はそこにはない。
SNSを例に取ると、利用者はまず簡単な自己紹介を書き、自分の友人を登録し、コミュニティに参加したり日記を書いたりする。この「友人の登録」も「コミュニティへの参加」も自分の属性を公に発信する行動であるが、その性質上、自分個人あるいは仲間内のみに対象を限定した情報発信であるような感覚に陥りがちである※2。
このような流れの中で、インターネットにおける「公開」の原則が現状に合わなくなってきているのではないか。少なくとも、この原則をインターネット上の全ての情報に当てはめることは、正しいことではなくなった。
そうであれば、「リンク禁止」についての議論も次の段階に進める必要がある。プライベートな書き込みは他者から見られないよう配慮されて当然だし、自分のページへのアクセスを管理したいという要望も納得できる。「他人に見られたくない」という目的のためにリンク禁止を主張することはお門違いだが、そういうニーズが今後ますます増えていくであろうことを考えると、「できないんですよ(インターネットはそういう仕組みにはなっていない)」の一言で一蹴するのはあまりに乱暴だ。
既にもう、インターネットというオープンな世界の中に、クローズされたコミュニティが無数に存在している。その中で、一ユーザは、自分の発信する情報の公開範囲が適切かどうか、責任の取れる範囲かどうかを常に意識する必要がある。そして、そうした教育をいかにして行っていくかが情報産業に携わる者の課題である。
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※ ここで言う「(無断)リンク禁止」には技術的理由のあるものを含まない。単に「私の知らない所から私の知らない人が私の書いたものを読むことを不快に思う感情」を解消したいがための一方的な主張を指す。(個人的には、「見られたくないならWebに載せなければいいじゃないか」=「公開されている以上、リンクを張るのはこちらの自由である」という立場を貫いてきた。)
※1 たとえ同一人物であっても、利用場面によって「読み手」であるか「書き手」であるかが区別される、という意。
もちろん、掲示板に書き込むことで何事かを主張することができるように、「読み手」の立場で情報を発信することができないわけではない。しかしそれは、サイト管理者が修正することも削除することも可能な時点で、完全な「書き手」にはなり得ない。
※2 いくらプライベートな利用に配慮したシステムが作られたところで、完全な「閉じられたコミュニティ」が実現できるわけはないのだが。
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だいぶ昔に『インターネットにおける「読み手」と「書き手」の境界の変化』というタイトルで書いていたのがいつの間にか論点はズレ、そしてなんのまとまりも無くなってしまったというオチ。長らく放置してたけど消してしまうのももったいないので恥さらし覚悟で放出。
結局、「そうした教育をいかにして行っていくか」について論じないとなんの意味もないのだが、そこのところはまた後日。